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diary 大浦信行監督日記
2007年03月22日 14:51
監督ノート 百合花日記(ゆりいかにっき)
3月21日(水)晴。
昨日のトークの後、総勢16人程でポレポレの近くの居酒屋に行き、今福さんを囲んで飲んだ。今福さんは終電間際に帰ったけど、残った7人程で朝6時頃まで飲んで笑ってだべった。
久しぶりに朝までのんだなぁ。家に帰って昼頃起き出し、軽くソーメンを食べ、出かける準備をして、3時からのトークのために再びポレポレへ。
今日のゲストは福住廉クン。福住クンとは昨年暮れに行われたギャラリーMAKIの忘年会以来、久しぶりに会った。
明るく若さいっぱい、溌剌(はつらつ)とした美術評論家。社会学、カルチュラルスタディーズの毛利嘉孝さんの研究室出身だ。だから福住クンの美術批評は、従来の批評とは決定的に違う。
今までの美術批評の依って立つ根拠が(福住クンの言葉を借りれば)、
「68年型の革命観に依拠した偏狭で男根的批評」か、
「細分化された『いまどき』の文化運動に寄生した批評」のいづれかに基点を置き展開されていた。
しかしそれは不毛な、所詮(しょせん)は近代に取り込まれた制度内制度としての美術の内部の硬直した批評でしかなかった。
福住クンは、鶴見俊輔氏の限界芸術論を基底に据えながらも、それを自己のものとして自家薬籠(じかやくろう)し、21世紀の今日に再生させ、新たな限界芸術の現代的なモデルを模索している。その彼が発言する。
「鶴見俊輔によって1956年に提唱された限界芸術という問題提起を、これまでの美術評論家はそれを引き受けて深化させることはできなかったし、あまつさえ批評の問題として俎上に乗せることすらなかった。端的に言えば、知ってはいたが、黙殺を決め込んでいたのだ。まさに美術批評の怠慢以外の何者でもない」。
「そのとき必要とされるのは、芸術であるかないかを問うより前に、この世界に散らばっているありとあらゆる事物や事象を身体の水準にまで還元する認識論的な転換である」。
「純粋芸術と大衆芸術がその対立的な図式を溶解させながら資本芸術のもとで渾然一体となっている以上、資本芸術の観点からすれば芸術とは目されないような珍奇な表現であっても、たとえば人の見る・聞く・話す・読む・書く・歩くといったきわめて原初的なレベルにまでシフトダウンすることによって、その資本芸術の色眼鏡を払拭することができるだろうし、曖昧になってしまった暮らしと芸術の地平を目前にとらえることが可能となるだろう」。(福住廉 連続企画「21世紀の限界芸術論」vol.2 ・ギャラリーMAKI製作)
福住廉の登場を待たなければ、このような問題提起が美術界からは沸き上がってこなかったわけだ。
そして彼はトークの場で、この映画に対する独自の論を展開していった。
「革命の根源的な原型としての映画」、
「金芝河の宇宙的な拡がりの中で生の連なりをとらえる垂直的な生命観」、
「鶴見俊輔の軽妙洒落でありながらも力強い語り口とあいまって、金芝河の言葉の衝撃は見る者の心底にずしりと響いてくる、それは忘れかけていた革命への欲望を惹起(じゃっき)させるような経験だ」、
「夢と現実が入り乱れたかのような幻惑的な世界。頻繁に映し出される水辺のシーンは比岸と彼岸のあいだをさまよう霊魂の視点を彷彿とさせ、闇の中で踊られるパンソリは無意識の奥底を垣間見るような幻視的想像力を刺激してやまない」。
うーん、冴え渡っているなぁ。福住クン絶好調だ。
どうしたらこうも明晰に分析出来るものかと、心底、感心して聞いていた。
ぼくはこのような福住クンの批評の骨法に大いに期待している。
トークが終って、福住クン、ギャラリーMAKIの名物オーナーである坂巻喜美子さん、関さなえさん、スタッフの田上さんなど7人程で連れ立って、ポレポレの近くの焼肉屋へ行ってビールなどを飲んだ。焼肉屋なのに決して焼肉は注文せず(しちゃいけない)、キムチ、ちじみ、カクテキなどに終始する。トークの後の緊張感もほぐれ、大いに話に花が咲いた。
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