日本心中

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diary 大浦信行監督日記

2007年03月19日 13:07

監督ノート 百合花日記(ゆりいかにっき)

3月18日(日)快晴。
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図1     図2     図3

妻の郁ちゃんは、よく物を拾ってくる。
図1の「銅製やかん」もそうだ。取っ手が木で出来ていて、大きさも程々。形もしゃれている。銅は熱伝導がいいので、あっという間に沸いてしまう。もう10年以上も使っている。
「なんでこんなのを捨てるのだろうね、もったいない。」と云っては、また何か拾ってくる。
図2の「蒸し器」も家の近くで拾ってきたものだ。
ステンレスで出来ていて、形も大きく、上下に分かれている。それを使って郁ちゃんは、次々と料理をつくる。
例えば、しゅうまい、山菜おこわ、中華まんじゅうとか、蒸し鳥、かぼちゃの肉詰めなど。とても重宝(ちょうほう)している。
図3の、彼女がいつも座っている「座イス」もそうだ。
今では座イスが郁ちゃんの体型にすっかり馴染(なじ)んで、似てきた。大分痛んできたけれど、どうしても捨てられない。柄模様のカバーを掛けて大事にしている。
そのようなことを繰り返しながら、郁ちゃんは生活を楽しんでいる。

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今日のゲストトークの中ザワヒデキさんは、科学者のような風貌だ。
実際に、元は眼科医だったそうだ。細身で背が高くダンディー。いわゆる従来の芸術家風といったタイプではなく、もの静かで理知的な話し方の人だ。(じゃぁ、絵描きはおしゃべりで、理知的じゃないのかと云われても困るけど)。
口から言葉を発する前に、頭でしっかり構築して、意味を確認してからおもむろに言葉が述べられていく、といった感じ。
中ザワさんの仕事自体も、美術を成り立たせている構造そのものを疑ってかかるところから出発しているように思う。
ぼくたちが自明と思っていた、「絵を描く」「ものを造る」という行為が、実は単なる網膜の幻想でしかないのではないかと、中ザワさんは考える。そのような思考の連続を通して、「美術の原型」を提示しようとしている。
トークでは、二人で観念芸術家の松澤宥(ゆたか)について話をした。
ハガキの無地の面に、「白色の円」が描かれていると想像せよ、と指示するような作品。あるいはダダ的側面としての「人類滅亡」を唱え続けていた松澤宥。
実は、前作「日本心中」での針生さんの対談相手として、まず最初にお願いしたのが松澤宥氏だった。
針生さん宅に、打ち合わせのために松澤さんと訪ねたこともあった。企画書も出来上がっていたけど、どういうわけか結局撮影は実行されなかった。その理由がなんだったのか、今となっては思い出せない。
中ザワさんが提唱する「方法主義」ということで云えば、ぼく自身も、「映画のための映画」「映画の原型」を目指す点では中ザワさんと同じ。
ぼくは、この現実にあるものは実は見えてないと思うし、この世界の裏側、あるいは背中に張りついた風景を通して、世界の原型に近づきたいと思っている。
中ザワさんとぼくでは、方法論は決定的に違うけれど、新たな世界の認識を模索している点では同じかなと思う。
近年まったくめずらしいタイプの観念美術家、中ザワヒデキさんに会って、久しぶりに新鮮な思いがした。
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