日本心中

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diary 大浦信行監督日記

2007年03月04日 05:32

監督ノート 百合花日記(ゆりいかにっき)

3月3日(土)曇。
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いよいよ今日から、アンコール上映がスタート。
やはり初日は気が引きしまる。
スタッフの工藤クン、田上さんも緊張気味。こころなしか顔が引きつっている(ように見えた)。前作、本作ともに韓国語監修をやってもらった古川美佳さんも駆けつけてくれた。
今日から始まるゲスト陣の一番手は、重信メイさん。前の仕事が押していて、3時からのトークにぎりぎり駆け込んでくる。セーフ。ハラハラしていた工藤クン、田上さんもほっと一安心。
トークでは二人で熱っぽく話し込み、予定の30分があっという間に過ぎていった。
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その中でメイさんが、映画の最後のシーンで笛を吹く箇所での自分の手の動きと音楽がずれていることを気にかけていた。それについて、ぼくは次のように語った。
「観客として、手の動きと音が合っていないと、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に指摘するのではなく、メイさんが笛を吹く“仕草”をしていると捉えれば、そこに動作と音のずれの中から新たな映画の空間が生まれてくる。だからあそこはずれている方がいいんです。そのように想像力を持って見ていけば、そこから豊かな映画的体験が生まれてくるのではないか」と。観客は笑っていた。
この動作と音のずれということでいえば、こんなこともあった。
前作「日本心中」での場面。
針生さんが、韓国・光州の下町商店街を歩き続けていくシーンがあり、そこに彼の独白がかぶる。しばらく独白が続く。すると唐突に独白はフェードアウトして消えていく。それに変わって、キム・ヨンジャの“十三湖の雪うた”という演歌が立ち上がってくる。“競馬ポマード、髪塗りかため、どこへ行ったかあの人は”と歌い上げていく。
観客の、針生さんの話を聞きたいという期待を裏切り、寸断し、そこに異質な要素を持ち込んでくる。ここに生じてくる映像と音のずれが造り出す不協和音によって、映画の時間と空間は俄然豊かな色彩を放ち出す。映画における映像と音の関係とはこういうことだと思う。決して寄り添うことではない。

メイさんとは、ほかにこんな話もした。
「アラブと日本に引き裂かれた2つのアイデンティティを模索するメイさんに、そこにさらに、メイさんの分身である岡部真理恵を挿入する。するとそこにメイさんの無意識の自己が立ち表れてくるだろう。そしてその自己は、韓国・朝鮮の闇に分け入っていく。そのような自己を追認する形で、生身のメイさんが金芝河に会いに行く。映画の中に3人のメイさんが漂っている。そのようなプロセスの中から、新たなメイさんを映画の中に創り上げていく」と。
久しぶりにメイさんに会って、話は尽きなかった。
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