日本心中

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diary 大浦信行監督日記

2007年02月02日 12:11

監督ノート 百合花日記(ゆりいかにっき)

2月1日(木)快晴。

昨夜の、関さなえさんのダンスについて。
関さんは毎年、ギャラリーマキで公演を行っている。今回は、5日間の連続公演。生身の肉体を使って、5日間も演じ続けるには、相当の覚悟と肉体の鍛錬が必要だなぁと、彼女の勇気に感嘆した。
無機的な身体が、曲に合わせてランダムな動きを転回していく。意味をすべて削ぎ落とした動きの、断絶と拡散と再集合の中から、新たな言葉が、単語のようにして空間に飛び散っていく。
物語性と叙情を取り去った果てに生まれ出てくる新たな根源的な言葉の数々。それを造り出すためには、人間は昆虫か機械か鉱物になるしかないのだろう。
そのようなことを二次会で、関さん、坂巻さん(ギャラリーマキのオーナー)たちと話した。焼酎お湯わり4杯。

朝9時半頃起床。残っていたごはんでおかゆをつくる。昆布だしで煮て、塩少々を加え、最後にみぶ菜を入れる。火を止めてから、とき卵をさっと上から掛ける。
お粥を食べながら、二日前の朝日新聞に載っていた、鶴見俊輔氏の不定期対談を読む。今回は詩人のアーサー・ビナードがゲストで、「言葉に宿る霊力」について語っていた。
鶴見さんが、大逆罪で捕まった金子文子(無政府主義者、1904ー26)の獄中日記にふれ、「人生で自分が経験したことは、どこかに残る。そのことを自分は信じる」という彼女の文章を紹介していて、深く納得させられた。
というのは、かつてぼくが「天皇作品問題」で、県立美術館と行政を相手取って裁判を起こしている時、「国家や権力がどんなに一人の人間を抹殺しようとも、その人が抱え持っている『想像力』までは、抹殺しきれないのだ」と心に強く念じて、日々を過ごしていたことを思い出し、金子文子の言葉に共感した。
それにしても鶴見さんの、周縁にある人や物に注ぐ眼差しには、いつも教えられることが多い。
隅っこにおしやられたもの、境界に位置するもの、誰の目にも忘れ去られたままになっているものを見詰めて論を展開していく態度は、感動的だ。
今回の映画にも出てもらっているけど、鶴見さんの話は漫談を聞くようにおもしろい。まさに思想が血や肉になっている。そして鶴見さん自身がどことなくいつも可笑しい。だって今だに、「ぼくは永遠の不良少年出身ですから」なんて云ったりするし。
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大浦信行

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