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comment 寄稿
2006年10月20日 23:23
寄稿文更新!
『9.11-8.15 日本心中』に、続々と驚嘆の声が寄せられています!同不順で随時UPしていきます!
*鶴見俊輔氏(哲学者)
*佐藤真氏(ドキュメンタリー映画監督)
*鈴木邦男氏(文筆業・一水会顧問)
*北沢洋子氏(国際問題評論家)
*土屋豊氏(VIDEO ACT!、映画監督)
*瀬々敬久氏(映画監督)
*小田マサノリ氏(元・現代美術家/民族誌家)
*峯村敏明氏(美術評論家)
*あだっち氏(ディジュリドゥ奏者)
*松本貴子氏(ディレクター・ライター)
*谷崎テトラ氏(構成作家・音楽家)
*中村麗氏(インディペンデント・キュレーター、編集者)
*小倉利丸氏(富山大学教員)
*富山和子氏(評論家)
*岸田秀氏(心理学者・精神分析学者)
*阿部嘉昭氏(映画批評家)
*胡冬竹氏(上智大学大学院生)
*井賀孝氏(写真家)
鶴見俊輔(哲学者)
映像の荒野を彷徨う旅人たちが、グローバリズムの網の目から逃れる道を探す。
かつて、このような映画が存在しただろうか。
佐藤真(ドキュメンタリー映画監督)
魂の根源を揺るがす対話と妖しい湿気を帯びた光景が濃縮された傑作である。東京の水辺とソウルの市街を東アジアの原風景と捉えた辻智彦のカメラがいい。その原風景の中に幻視するアバンギャルド美術や戦争画、シャーマンの舞いなどが、金芝河などの稀代の知識人の言葉と火花を散らす瞬間に、眩暈に似た興奮を覚えた。やがてその火の粉は渾身の力を込めた思想家たちの言葉をも発火させ、見る者に真の覚醒を迫るのだ。
鈴木邦男(文筆業・一水会顧問)
こんな映画が可能なんだ。驚いた。これは思想映画だ。哲学映画だ。国家、戦争、天皇制、アメリカについて語り、各人の歴史、人生を語る。自分を通して語る言葉は説得力もある。この日本で、世界の現状に抵抗する人々だ。針生一郎、重信メイの根源的な魂と自由を求める旅がいい。鵜飼哲、鶴見俊輔の言葉が熱い。金芝河の言葉が重い。思わず我々も立ちすくむ。藤田嗣治の戦争記録画さえも我々に鋭く問いかける。
〈反体制〉という言葉を久しぶりに思い出した。その戦い様に興奮した。反体制だが決して反日ではない。だって、これだけ日本と天皇制にこだわり、熱く語っている。ちょっといたい。そして、日本とともに心中しようとまで思いつめる。
心中は究極の愛だ。それほどまでにこの日本を憂い、この日本が愛おしいのだろう。その愛に感動した。
北沢洋子(国際問題評論家)
これはドキュメンタリー映画だろうか?むしろ、かって日本のタブーであった「天皇コラージュ」作品を製作した大浦信行の新たな前衛的美術作品である。
「9.11-8.15 日本心中」というタイトルから人が想像するものとは全く違う。
また「日本心中」というおどろおどろしたタイトルからもほど遠く、むしろ日本と韓国の土着文化がそれぞれの国の代表的知識人たちの対話をつなぎ、それ自体が美術作品となっている。
大浦信行は、この作品を通じて何を言おうとしているのだろうか?それは観る人が歩んできた人生によって異なるだろう。
土屋豊(VIDEO ACT!・映画監督)
難解、あるいは意味不明な言葉の数々が、魑魅魍魎が跋扈する映像世界と対立し、切り結び、散らばって行く。言葉を無意味化し、風景に溶け込ませようという気狂 いじみた妄想は、ひとつの神話的映像を作り出した。これは正気の沙汰ではない。
瀬々敬久(映画監督)
遠く、たどり着けない希望。それでも私たちは求めている。だからこそ逆に、アラブにも韓国にもアフリカにもヨーロッパにもアメリカにも、そこで暮らす血の通った人々と繋がっていける。その希望は決して生ぬるい希望ではない。9・11 以降の世界観を日本人の立場で初めて提示した映画だと思う。それもこんなにも 豊かなやり方で。この映画は地上に住まう私たち、人々の映画だ。だから広がって欲しい。
小田マサノリ(元・現代美術家/民族誌家)
この映画を観て若松孝二の「17歳の風景」を思い出した。それは少年が自転車で北に旅をするロードムービーである。少年は東北の駅で老人と出会い、老人が語る戦争体験に耳を傾ける。その老人が本作の主人公・針生一郎で、本作は「17歳の風景」で少年と別れたところから始まる76歳の批評家のロードムービーとして観ることができる。だが1945年8月15日を原点とするその旅の歩みはすこぶる鈍重で、疾走感というものがまるでない。それどころかロードムービーでありながら移動のプロセスを感じさせないスローなロードムービーで、緩やかな螺旋を描きながら再び原点に回帰してゆくループするロードムービーである。はたしてこれは悪循環的な堂々巡りだろうか?そうではない。これは常に原点に立ち戻ることを自らのライフワークとして選びとった男のドキュメントである。したがって1945年のグラウンドゼロ体験を共有しない世代には共感するのが難しいかもしれないが、それでよいのだ。監督の大浦も針生も共感など初めから求めていないはずだ。人にはそれぞれ生まれた時代や土地に固有の異なるロードがあり、ルートも違えばスピードも違う。大切なのはその違いを互いに承認し合うことであり、そうした他者のロードとの出会いに敏感であろうとすることだ。この映画が求めているのは、映画を観終わった後に、それぞれが自分の原点を思い定め、そこから自分のロードに出発してゆくことではないだろうか。
峯村敏明(美術評論家)
ぎゅうぎゅう詰めの大浦の新作には、とりわけ忘れがたい三つの場面がある。
前作では紫煙をくゆらせる姿が印象的だった日本心中行の請負人・針生一郎が、今回は冒頭、市場で魚の塩づけを手づかみで食う。金芝河を称える鶴見俊輔が湯餅をうまそうにほおばる。藤田嗣治の『アッツ島の玉砕』を模写する島倉二千六が昼食の丼めしを豪快にかっこむ。なぜ「食う」なのか。
二つ目は、絵が燃されるシーン。針生に真正のリアリズムを感得させたという河原温の連作『浴室』(のコピー)がめらめらと燃やされる。針生に共感する美術評論家・椹木野衣によって日本の捩れた近代を体現しえた稀な作品と称えられる『アッツ島の玉砕』(の模写)が、終盤で壮絶に爆焼される。称えられた過去の(暗い)作品が、なぜ燃されるのか。
三つ目は、ソウルを訪れた重信メイ(命)と金芝河との感動的な対談。金は、風の吹く日、T.E.ローレンスがアラブ人の家の壁から漂い出たかすかな香草の匂いを嗅ぎ取った故事を、韓国の田舎で彼自身追体験したことに触れ、「地球人」に必要な感受性を語る。
ここに現われた類似シーンの反復と照応は偶然だろうか。そうだとしても、それらを取捨した大浦の卓抜な映像感覚は目をみはらせる。大浦は新しい出会いと彼自身の映像の力によって、一段と遠くに、歴史と状況を踏みつつ超える地平に、歩み出たようだ。
あだっち(ディジュリドゥ奏者)
ヒコーキがバビロンに衝突するシーンもなく大昔のさるかに大合戦すらもない。
思想と言語と美術がなめらかでやさしい映像から表現される「心の中」でした。
過去の感情を浄化するかのように描かれ燃やされる絵画、
といかけみまもる少女はあらゆる人のもっとも美しい部分の浮き写し、
金芝河には原始と宇宙がありました。
あらたな人類はすべての人の心から生まれると、
まるで未来からの囁きのようです。
答えは観る者達の心の中にあり。
松本貴子(ディレクター・ライター)
「この映画145分もあるの!?」私はそんなに根気があるだろうかと入場するのをためらった。案の定、映画開始早々瞼がくっついてしまう…と思っている と、なんと30分を経過したあたりから目がパッチリとあき、頭がクリアーになっていく…。どんどん映画に惹きつけられ、『キチンと観よう!聞こう!』としている自分がいることに自分でビックリ。“こんなにわけわからない映画”に夢中になっている私って何か変!でも、私の中の大切な何かと響き合ってしまったみたいだ。帰る道々とっても得した気分になった。
谷崎テトラ(構成作家・音楽家)
反戦作家、思想家、哲学者、詩人のドキュメントとイメージ映像で綴る反日ファンタジー。僕には抵抗詩人、金芝河の8年間の獄中生活での話がいちばんぐっときた。獄中生活で精神的に追いつめられたある日、窓から入ってきたタンポポの綿毛に心が揺さぶられる。突然、ひとつながりの生命に刮目し、人間性が変化していったという自己を告白するのだけど。その瞬間から僕にはこの映画が特別な色彩をもって見えはじめた。
中村麗(インディペンデント・キュレーター、編集者)
自らが「自画像」と呼ぶ版画シリーズ『遠近を抱えて』の社会的反響によって、作家の思惑を超えて自立する作品の力に驚愕したという大浦信行は、さらに自分自身とその在り処を問い続けている。前作「日本心中」は、現実世界の道先案内人である針生一郎に対して、大野一雄、入れ墨、ポーの詩を朗読する男女等がイメージの断片として登場する。一方本作では、多くの語り手が登場するが、冒頭の針生が魚を食らうシーンで象徴されるように、もはや現実と虚構に線を引くことさえも困難となる。見せ物小屋から村上隆の作品へ、金芝河や重信メイの語り切れぬ背景を背負った独白、描かれた後、焼き落される戦争画等々。タイトルの通り、9.11から終戦までを逆照射することの可能性/不可能性を観るものに切実さを持って問いかけてくる。
小倉利丸(富山大学教員)
大浦は、映画に新たな文法を持ち込んだ。この意味で、これは「映画」ではない。「映画」と呼ばれてきた表現のジャンルが、現実との間に巨大な分離壁を構築して虚構のなかにリアリティを押し込めようとし、他方で、現実を描写するドキュメンタリーは、常にリアリズムの壁を超えられないままであった。そして、いずれの場合であれ、この映像の背後に作家は隠れ、作品の「自立」を見せかけつつ、暗幕の影から観客を覗くのである。しかし、これは、映画が20世紀にもたらした壮大な罠であって、私たちの生きる世界は、虚と実を分け、主体が表象の裏に隠れうるといったようには都合よくできていない。大浦の映画は、すべてが大浦という主体によって構築された主体映画ともいうべきものであり、まさにこの意味で、「映画で」はないのである。
富山和子(評論家)
これはドキュメンタリーというより、重厚な映像詩だ。藤田嗣治から海辺の大観覧車まで、コハダの一口からロレンスまで、素材の組み合わせが実に面白く、更に大胆不敵なカメラワークが、もう一度見てみたいという不思議な感動を誘う。
終始心にかかったのは、8月15日を経験せぬ世代の皆さんがこれをどう観るのだろうかという、その感想を知りたい思いだった。
岸田秀(心理学者・精神分析学者)
歴史は1945年8月15日のはるか昔より始まり、2001年9月11日を超えてはるか遠くの未来へと流れてゆくが、この歴史の流れに揉まれながら、日本人は、韓国人は、アラブ人は、アメリカ人は、世界の人々はどのように絵を描き、詩をつくり、踊りを踊り、どのようなイデオロギーに頼り、どのように自由を求めてきたか。それがこの『9.11-8.15 日本心中』に凝縮されている。自由は単純ではない。自由の戦士はしばしば弾圧者に変身する。アジアを侵略する欧米諸国からの自由を求めて戦った近代日本は韓国・朝鮮の自由を奪い、中国を侵略した。ナチ・ドイツに人間の尊厳を踏みにじられたユダヤ人は自由なイスラエルを建国し、パレスチナをアラブ人の牢獄にした。今、世界の人々の自由を最も弾圧しているのは自由と民主主義の理想を掲げるアメリカである。並立するWTCを倒壊させられたアメリカは被害者か加害者か。戦前の天皇制の呪縛から解放された戦後日本は自由になったか。権力に抵抗する者に自由の栄光はあるか。反体制は自由を約束するか。藤田嗣治が「アッツ島玉砕」を描いたのは、アジア解放戦争に共鳴したからか、軍部に迎合した結果か。これらの問題に結論を出し、その結論を正しいとして安住している者はいない。左翼は分裂し、右翼は分裂し、入り交じって思想は混迷し、人々は考えに考え、あるいは何も考えずにさまよい歩く。針生一郎が登場する。鶴見俊輔、鵜飼哲、椹木野衣らと飲み屋で、研究室で、静かな部屋で語り合う。重信メイが金芝河を韓国の自宅に訪れ、語り合う。心と心が通いあい、ときにずれる。大野一雄は踊り、島倉二千六は模写し、岡部真理恵は演じる。それぞれ針生一郎と語り合うことはないが、そこに表現されるものは、微妙に交錯する。背景は、浅草の花屋敷か、隅田川の川面か、ソウルの街角か。最後に針生一郎がふたたび登場し、どこかへ去ってゆく。行き先は明らかではない。大浦信行は二時間二十五分のこの映画で何を言いたかったのか。それが何であるにせよ、この映画は、見た者に自由とは何かという難しい問題を残した。
阿部嘉昭(映画批評家)
大浦信行の新作『9.11-8.15 日本心中』は、前作『日本心中』(2002年公開)にも劣らぬ、圧巻の出来だった。美術評論家・針生一郎と、彼が出会う対象との会話を撮影隊が追うというのが当初の恰好だが、それは「非連続」の組成によって染め上げられていて、脱体系的である。
大浦は本作で重信メイに、自作の文章を朗読させているが、それら日本の現状の転覆を志す主唱でも、難解な文意ながら、そこにベンヤミン型の静止的弁証法の痕跡が明確に認められるのだ。その「非連続」によってこそ、思考が湧き上がり、無限の「星座」づくりの可能性が刺激的に転写されていく。
そうした用意周到に施された装置の合間を縫って、やがて金芝河との会話が蝶番になり、ナヴィゲーターが重信メイへと移っていく。幸運にも重信メイは、金芝河から「禅譲」を託されたのだ。針生という時間放浪者から、重信メイという、運命的に空間放浪をしいられた女性への禅譲。
この金芝河場面からの遡行を介して、作品細部に様々な作用が起きてくる。たとえば15年戦争における日本の戦争責任、半島起源の天皇家、「在日」詩人の感情の持続と「恨(ハン)」についてなど。また、「聖なる廃墟」としての大野一雄の手が喝采の仕草と、波の終焉の模写、その双方を描きながら、空間を別次元の神秘へと切り裂いていく、その慄然たる時空の開示。「想像力」だけが、このロードムービーの組成をつなぐ作用力となって東アジアの民衆の根源=混沌に立ち返り、暴力的に転覆させよ、と指し示す。
幽玄な画面の中から立ち昇る映像の変転/間の創造/卓抜な音声処理/意味要素の点在・・・。真摯な思考者たちが現前していながら、どこか作品の奥底で次元のちがう舞踏やざわめきが起こっているような妖かしのフィルム。それを前にして鏡面化された「われわれ」は、彷徨者の姿で浮かび上がることになる。
作品は、「われわれ」に想像力の参加を求めている。そして「歴史」を、「根源」を、「民衆」を、獲得した自由な精神で捉え返せ・・・そう静かに示唆している。
胡冬竹(上智大学大学院生)
映像を拒否し続けてきた自分にとって、まさに映像を通して迫ってくる思想が今まで本で学んだ思想をひっくり返したほどの思想映画でした。
金芝河が依然として東アジア民衆の「ハン(恨)」を訴え続けるし、朝鮮とパレスチナはこれからも日本にとって重要な思想資源であり続けるでしょう。
東京とソウルの水辺と街から映された「東アジアの原風景」の中に、中国が入っていない。
が、しかし恐らくいつまでも「東アジアの原風景」が日本の近代から欠席できない「中国の混沌」にとり憑かれるかもしれない。
井賀孝(写真家)
静かに暗喩的に流れる川
たゆたうクラゲ
窓辺で羽ばたく蝶
大盛り飯を食らう絵かき
食べ残された韓国飯の器
赤く怪しく光る太陽
床に無造作に横たえられた人間たちの絵
どこか懐かしい韓国の路地裏
金芝河の存在
これら断片的なイメージが残り、言葉を消していく。
理屈で見てはいけない。これは体感する、感じる映画だ。
以下のブログでも紹介されています。
鈴木邦男をぶっとばせ(鈴木邦男さんのブログ)
http://blog.goo.ne.jp/kunyon-s/e/2380606a7c03b5662406f858a5fac36b
イルコモンズのふた。(民族誌家・小田マサノリさんのブログ)
http://illcomm.exblog.jp/3905455
テ・ト・ラ・ノ・オ・ト(構成作家・谷崎テトラさんのブログ)
http://blog.livedoor.jp/tetra_/archives/51184030.html
NACHT MUSIK 2ND
http://blog.goo.ne.jp/pantax29/e/3ffc6d21a320149bda5efefc354bc3cf
ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-92.html
三上のブログ
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060927/1159358543
横山ひろあきのJam-pot
http://www.jamsand.info/jampot/
映画ライター・井口健二さんのブログ
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/47635/diary.html
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