日本心中

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introduction 解説

2006年08月15日 22:54

『9.11-8.15 日本心中』関係資料

関連資料


山下菊二(やました きくじ)
1919年徳島県に生まれる。19才(1938)の時、日本のシュルレアリズムの指導者、福沢一郎の絵画研究所に学ぶ。ここでボッシュやダリ、エルンストの作品を知り、衝撃を受ける。
20才(1939)の時、招集、現役入隊する。〈大日本帝国陸軍の一兵卒として〉中国南部での日中戦争に送り込まれた過酷な戦場体験は、多感な一青年にとってあまりにも重く、戦争従犯者としての責任という意識は、生涯の制作課題となる。
33才(1952)の時、小河内ダム建設反対の山村工作隊を支援するための文化工作隊の一員として、小河内村に赴き反対運動を展開する。34才(1953)、山梨県あけぼの村における貧農と地主の闘争の記録を、モンタージュ風に描いた『あけぼの村物語』を制作。この作品を同年開催された第一回ニッポン展に出品する。
1950年代に「ルポルタージュ絵画」と呼ばれたこの『あけぼの村物語』を含む一連の作品群による「新しいリアリズム絵画」は、60年代初頭のネオ・ダダ、反芸術と共に、戦後日本の閉塞感と極限状況を見事に写し出している。
そして土俗と因襲、怨念と抑圧がおどろおどろに渦巻く世界を、地獄極楽図のように残酷だが、紙芝居のようにユーモアを含んで再構成し、阿波人形浄瑠璃や恵美須人形、ジンタをひびかせるサーカスなどの日本のフォークロアが、グロテスクとエスプリを交錯させて表現されている。そこにはシュルレアリズムをドキュメンタリーの方向に超えながら、共産党の紋切型のリアリズム理論に対抗しようとした山下の一極限がある。またその内部には、モンタージュされた諸要素から観衆が自由に物語を読みとれる多義性をはらんでいて、根源的な生命の意識を突き抜けて立ち表れてくる死者たちと一体化している。
その後も「松川事件」や「狭山裁判」などの社会的題材を取り上げ、現代日本史の不条理な構造矛盾が、実は天皇制を頂点とする巨大な暗黒の制度によってもたらされていることを、鋭く指摘し続けている。
生前から多くの若い世代に影響をあたえた彼の道程と作品は、その死後も尖鋭な思想にもとづく芸術、芸術制作を通して形成された思想を求める人々の、かけがえのない指標となっている。


藤田嗣治(ふじた つぐはる)
1886年、東京府牛込区に生まれる。父嗣章は、文豪森鴎外の次の軍医総監を務めた。1905年、東京美術学校(現東京芸大)西洋画科に入学。
1913年、パリ到着。1919年には、サロン・ド・ドートンヌに6点出品し、全点入選を果たす。1922年には早くも審査員となる。モンパルナスにアトリエを構え、モディリアニ、スーチン、ピカソ、パスキンらと親交を結び、次第にパリ画壇の寵児となっていく。オカッパ頭にロイド眼鏡という独特の風貌でパリを闊歩し、美術界ばかりでなく社交界でも人気を集めた。裸婦、猫、少女などを題材として選び、その「乳白色の肌」は、西洋画の模倣でも日本画でもなく、藤田独自の絵画世界の表出としてパリ画壇の絶賛を浴びる。
1940年、ドイツ軍の侵攻によって陥落直前となったパリを脱出して、7月日本に帰る。帰国後に藤田が描いた『ノモンハン事件』は、1941年第二回聖戦美術展に出品され、この作品を起点として彼による大量の「戦争記録画」が制作、加速されていくこととなる。憑かれたように昼夜を問わず描き続ける藤田の戦争記録画は、肉の塊としての「死の相貌」だけが累々と画面を支配し、人間を「肉体」として捉え、その肉体の蠢くさまの「器官なき身体」という極限状況をしっかりと見据え、描ききっている。そこには、自己の内部を空洞化させ、次いで自己を拡散し、膨張と収縮をくり返していく私たちの姿の投影がある。
『アッツ島玉砕』や、『サイパン島同胞臣節を全うす』によって、明治の移植された制度としての近代の中、さらなる美術という「内なる制度」が、戦争記録画によって初めて西洋からの借りものでない、真にリアリティーを持った「民衆」という主題を見い出し得たという逆説。それは皮肉にも、日本近代絵画の一つの到達点でもあった。そこから、近代日本の「自画像」が密かに浮かび上がってくる。だから藤田は、戦後へと繋がる、自己分裂を起こし、分断、分節されていく自己と、「肉体化する世界」とを、戦争記録画によって、いち早く予兆していたと云える。それが天皇制に支えられた帝国日本の、大アジア主義による侵略戦争の名のもとに描き出されてきたことは不幸な事実ではあるけれど、そのような形でしか日本の自画像や民衆といった主題を見いだし得なかった日本近代の歪みとねじれもまた、この戦争記録画によって露になってくる。
魔性をおびて、狂気となって、人間存在の根源的な魂の叫びにまで昇華された藤田の戦争記録画が、私たちに提起する問題は、未だ出口を模索し続ける現代の私たちに鋭く突き刺さってくる。
戦後は一転、軍部権力に協力し、侵略戦争を賛美した戦争犯罪者として断罪される。
1949年、「日本画壇が国際的水準に達することを願う」という捨てゼリフとともに羽田を出発し、アメリカ経由でパリに辿り着く。その後二度と日本の土を踏むことはなかった。
1955年、日本国籍を抹消、フランス国籍を取得する。1968年チューリヒ州立病院で死去。

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