日本心中

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2006年08月15日 15:32

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コメント

「日本心中」シリーズ、続けて二本見させて頂きました(前作は2回目)。凄い映画だと思いましたし、皆さんが絶賛されているように、時空を超えた豊穣な「大浦ワールド」に圧倒されました。家に帰っても、あれこれ思いがこみ上げ何も手につきませんでした。ひたすら歩き続け、独白し続ける針生一郎氏の姿は、針生氏に接した人は誰もが目の当たりにすることです。その捉えにくいイメージを起点として構築されていく、様々な語りの渦と横溢する美しい映像美にひたすら息を飲み続けました。
 
しかし何か違和感が残りました。今朝、眠りから覚めた時、ハッと気が付きました。この映画は何回も見たいし、まだろくすっぽ、緻密で分厚いパンフレットも読んでいませんが、敢えてその違和感について書きたいと思います。
 
恐れを省みず一言で言ってしまえば、これは断じてドキュメンタリー映画ではありません。イメージの収奪、「帝国主義的 映画の神話」とでも名付けたい。
 
この2本の映画に登場してくる主要人物は、言うまでもなく知る人ぞ知る評論家・学者・思想家・美術家・ジャーナリストたちです。その膨大な仕事や生き方に対して、常日頃抱いている印象と、この映画で見た印象はかなり異なります。
 
針生一郎氏の評論家としての起点を保田與重郎の思想や河原温の作品に集約することはできないと思いますし、美術収集家の河正雄氏は「俺、子ども時代のホルモンのエピソードだけかよ!」と呻いていることでしょう。また金芝河氏に対する印象は70年代の民主化闘争の記憶が圧倒的なこともあり、東学思想から韓国の神話である壇君思想に傾倒していく最近の言動に違和感をもっている人は多いでしょう。混迷を深めていく、暴走する国民国家のエゴイズム丸出しの世界情勢にあって、一国家・一民族の思想・伝統文化を神話化することは大変危険なことだと思います。韓国の伝統的な精神文化を「恨」に代表させることにも強い違和感を覚えます。これでは、日本植民地主義史観と何の変わりもないです。また中東問題=アラブ世界・イスラエル問題に集約する図式も、マスコミ・学者が長年犯し続けてきた矮小化、決定的な誤りです。9.11事件ですら真相は明らかにされず、日々氾濫する情報の中で、暴力の連鎖と、「治安・テロ対策」という国家権力の意図的なねつ造による「神話」だけが一人歩きを続けています。
 
そんなことは百も承知の上で、この映画は美しい。しかし、現実の世界に生き、何かを表現する者にとって、今やるべき仕事は、国民国家権力の言説を無批判的に垂れ流す情報の洪水に抗い、国家の暴走・神話化を杭い止める小さな流れを、無数に作り出すことだと思います。この映画があまりにも美しいイメージに満ちあふれているだけに、それに飲み込まれてしまうような危機感も感じました。誘惑に駆られる言説には細心の注意を払いたい。
 
「9.11-8.15 日本心中」のラストで、「アッツ島玉砕」が「サクリファイス」され、「針生さんどこまで歩くの?」と問いかける少女に、針生氏が「夢の果てまで」と答え、映画導入部の映像が映し出されたスクリーンの前で、針生氏が立ちすくみ、重信メイが韓国の伝統楽器「テグム」を吹き出す場面では、正直「ここまで紋切り型をやらすか!」と抵抗感を覚え、思わず身構えました。しかし次の瞬間、シルエットだけになった針生氏は、そそくさとその場を立ち去り、重信メイはテグムを観客席に放り投げる。まるで、この映画で演じてきたことと決別するかのように。そこにこの映画の潔さと、観客への問いかけ、未来に託す大浦さん自身の一縷の希望を見たように感じました。

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