2006年11月25日 16:29
撮影の記憶より 辻智彦(撮影)
4. 金芝河氏と重信メイ氏の対話 2004年5月23日
2004年5月。ソウル、金芝河氏の自宅にて、その対話は行われた。
金芝河氏を訪ねたのは、重信メイ。言わずと知れた元日本赤軍のリーダー、重信房子の娘だ。
現在ジャーナリストとして活動している彼女だが、今回の訪問はジャーナリストとしてではなかった。
この現代に生き、数奇な運命の中を生き抜いてきた女性。28歳になるまで国籍も持たず、イスラエルからテロリストとして命を狙われる母親とは、会うことはおろか、電話で話をすることさえままならなかった状況。子どもの頃から学校を転々とし、レバノンの内戦では友達も多く失った現代の悲劇の体験者。
その彼女が、2001年に初めて日本の地を踏み、自分の生き方を模索する中でこの映画と出会い、出演を決意し、身を潜めて生きてきた28年間の人生をとりもどすべく、カメラの前に身をさらすことを決意したのだ。
僕がメイさんと初めて出会ったのは、2001年の秋頃だったろうか。知人の紹介で東京のレバノンレストランで行われていた何かのパーティの時だったと思う。
そのときはただ紹介されただけだったが、大きな瞳で見透かされるようにじっと見つめられたことが印象に残った。
それから2、3度くらい、何かのおりに顔を合わせてはいたと思うが、この映画にかかわる直接的なきっかけになったのは、前作『日本心中』上映の際にゲストとして来てもらったことだった。
僕の知り合いということで、半ば強引にお願いしたのだが、ゲストとして快く映画館に足を運んでくれ、この難しい映画に対して、しっかりと自分の意見を言ってくれた。
監督の大浦さんも、そのメイさんの姿をみてインスピレーションが湧いたのだろう、メイさんと会った直後から、次回作の主役は彼女で行きたいと強く言うようになった。
だがもちろん、彼女も日本にきてまだ日が浅く、出演依頼もどうしたものかずいぶん悩んでいたようだ。
拘置所のお母様に企画書を見せたり、周りの人たちに意見を聞いたりしていたが、最後は自分で出演を決断してくれた。
そうして、この映画の中に、針生一郎氏とは別の、もう一つの軸が定まった。
撮影がはじまると、やはり初めはぎくしゃくすることも多かった。メイさんも撮影プランなどに意見をすることが多く、映画に真剣に取り組んではいたが、表現の仕方をめぐって意見が合わないこともしばしばだった。彼女は彼女なりの生きてきた他にない過酷な人生があり、そこで感じてきた気持ちを正直にスタッフに投げかけてきた。
しかし、映画は出演者の意見のとおりに作るものではない。むしろそこからずれ、違う視点を確保して出演者自身も気づかなかった新しいビジョンを提示することこそ映像表現であり、ドキュメンタリーを撮る際の作り手の姿勢だと思う。
しかし、そういう風にして撮影を進めて行くうち、メイさんの撮影に対する姿勢にも変化が出てきた。何が大切なことがらなのかを、映画に即したかたちで提案してくれるようになってきたのだ。
そういういい形での協同作業が出来るようになり、メイさんもいそがしいスケジュールをぬって韓国へ旅立つ準備を整え、映画のひとつのクライマックスとして、ついに金芝河との対話が実現した。
この映画に関わる皆が望み、実現が待ち望まれた対話が、ついにカメラに収められることになった。
2004年5月23日、ソウル・金芝河氏宅。晴れた日の昼下がり、人々のおしゃべりや犬の鳴き声がむしろ静寂を誘うように遠く反響して聞こえる、静かなマンションの一室で、重信メイさんと金芝河氏は初めて顔を合わせた。壁一面に、高い天井まで届く本棚には本が整然とならべられ、日本と同じく床に座布団を敷き座り込むスタイルから見上げる本棚は、まるでそびえ立つ知識の貯蔵庫だ。
普段少々のことでは動じない、腰のすわったメイさんも、この日ばかりは、かなり緊張気味だった。金芝河氏と直接出会うということ、映画の撮影という役割をこえて、その重要さを、勘の鋭いメイさんはすぐに直感していたようだった。
金芝河氏はメイさんの緊張を知ってか知らずか、前の針生一郎氏との対話のときのような厳しく張りつめた表情ではなく、柔和な笑みをたたえて僕たちを自宅に迎え入れてくれた。その、常に重すぎる荷物を背負い込んでいるようなゆっくりと力んだ動作も、拷問の後遺症による肉体の苦悶というより、なぜかこの日はやわらかでもの静かな、気遣いを感じさせる物腰のように見えた。
気持ちをほぐすための雑談とおおまかな打ち合わせの後、本棚を背景に、金芝河氏は胡座をかいて窓を背負い、重信メイさんは入り口を背にして正座し、正面から向き合ってもらうかたちで、カメラのセッティングを開始した。
この対話も、カメラ一台での撮影だ。メイさんの背中ごしから、2人が正対しているのが真横から見える位置まで斜めに移動車を敷く。光は金芝河氏の背中越しに差し込む窓からの光をメイン、後は逆行になる金芝河氏の顔に少しライトを当てさせてもらうだけにした。背中から外光に包まれた金芝河氏が柔らかく浮かび上がり、ゆっくりと体を揺すりながら話すその影が、風に揺れる木々の影のように、淡い陰影をメイさんの顔や体に落とす。それでいいと思った。
やや固いメイさんの自己紹介から、対話の撮影がスタートした。まずはメイさんが、名前の由来を金芝河氏に語りかける。
カメラはメイさんの背中越しからゆっくり移動し、話に聞き入る金芝河氏の顔を画面に入れた。日本語をあまり理解出来ないであろう彼はしかし、真剣なまなざしでメイさんの語る言葉に聞き入っている。言葉の意味ではない、何かもっとその奥にあるメイさんという人間そのものに聞き入るような感じというのだろうか。。
メイさんの話を聞き、通訳の古川さんが丁寧に話の内容を伝えたあと、やがて金芝河氏はゆっくりと口を開いた。メイさんの話をしっかりと受け止め、丁寧な分かりやすい言葉で答え、また問いかけていく。
改めて思ったのは、金芝河という人の懐の深さだった。針生氏と対している時は、針生氏の問題意識をしっかり受け止め、その問いの先まで見据えた答えを、あるいは問いを投げ返していく。メイさんと語るときは、メイさんの苦難に思いをめぐらせ、深い共感とともに自分のから体からわき上がる感情をまっすぐに言葉にしていく。その、相手との深いところでの交感の回路が、なんというか、感動的に人間的なのだった。
重信メイと金芝河。この2人が平易な言葉で語った、ある意味平凡な話・・・しかし、その奥行きは、どこまでも見えない希望に、一筋の光を差し込ませる穴を開ける針のような、鋭さと固さをもっているかも知れない、と思った。
撮影が終わった時には、もう日も暮れかけていた。
どこからか、夕飯のいいにおいがしてきた。
2006年11月18日 16:26
撮影の記憶より 辻智彦(撮影)
3.金芝河氏と針生一郎氏の対話
この対話はいつ、どこで行われたのだろうか、、、
現実的な日付と場所なら撮影日誌をめくればすぐにでも分ることだろうが、どうもその日付がこの対話の行われた時間と場所を、本当の意味で正確に指し示しているようには思えない。
金芝河という希代の幽閉者。針生一郎という痛魂の放浪者。この二者が、相まみえるに真にふさわしい時間と場所とはどこだろう。そこは恐らく、この現実界には存在し得ない、時空の隠れ家に違いない。
これは針生一郎氏との、二度目の渡韓だった。前回は2000年3月、大浦信行監督の前作「日本心中 針生一郎・日本を丸ごと抱え込んでしまった男」で、光州ビエンナーレに出席する針生さんを追って、撮影スタッフは韓国に渡ったのだった。
今回は、針生さんがあの抵抗詩人、金芝河氏に会いにいく。緊張感は否が応でも高まっていた。
初めて会う金芝河氏は、幾分調子が悪そうだった。無理もない。若い日の過酷な監獄暮らしと激しい拷問によって、全身ぼろぼろにされているのだ。のそのそと撮影現場に入ってきたかとおもうと、部屋の隅にすぐ座り込んでしまった。なんだか疲れているようだ。
韓国の建物は、なぜか床と窓の位置がいい。濃密な空気感がいつも室内に漂うのが見えるような光の入り方なのだ。オンドルになっていて床が微妙に高いせいだろうか。
金芝河氏がのそっと座り込んだ位置も、全く文句のない光に満たされていた。
よし、撮影はこのまま行ける。あらかじめ光が回りやすいように部屋中のドアを外しておいたため、机の位置を微調整するだけですぐに撮影を始められそうだった。
まずは大浦監督のインタビューから撮影は始まった。通訳の古川美佳さんは韓国文化や美術のエキスパート。金芝河氏の哲学的な語りを的確に訳してくれる。この映画に欠かせないスタッフだ。
はじめ、やや面倒くさそうに話していた金芝河氏だったが、話すうちにだんだん身を乗りだし、眼を輝かせはじめた。そして、インタビューが一区切りついた時、彼は微笑みながら大浦さんに語りかけた。
「私に、あなたのような深い質問をされた人は初めてです。私の真の理解者が日本にいました」と。大浦さんの金芝河氏に対する思いが、精神の深いところで共鳴し合ったのだろう。大浦さんも深くうなずいていた。
こちらを完全に信用してくれた金芝河氏は、今度いよいよ針生氏との対話の場を持つことになった。
暗い部屋、正対する2者。針生さんもやや緊張しているようだ。
今度はうってかわって、窓のない部屋での撮影。こちらの持ち込んだ照明機材のみでの光だ。人物が発光してこの部屋を照らしている、そういうごくシンプルなイメージを手がかりに、ライティングの準備を進めて行った。言うのは簡単だが、実現するのはなかなか難しい。以外と手間取り、逆に2人を待たせることになってしまった。
カメラは椹木さんの時と同じく一台。一台で対話を撮るときの独特の緊張感は、この映画のスタイルとも一致すると考えるようになってきていた。簡易移動車のレールを正対する2人に直角に敷く。2人と移動レールの関係がTの字になるような配置にして、撮影を開始した。そして僕は、撮影しながら、どことも知れない時空に迷い込んで行くように感じていた。移動車のレールにのって、ゆっくり滑って行くカメラが、まるで銀河鉄道のようだった。
2006年11月11日 16:22
撮影の記憶より 辻智彦(撮影)
2. 椹木野衣氏と針生一郎氏の対話 2001年11月27日
2001年11月27日、9.11から2ヶ月半。衝撃がまだ生々しく、人々がそれをどううけとめるべきなのか戸惑っていた頃、この対話は行われた。晩秋の穏やかな日中、しんと静まった喫茶店に、2人はやってきた。
針生氏は席に着くなり、思慮深い普段の語り口とは異なる、いつになく熱っぽい口調で9.11の衝撃と、そこで感じた自分自身の感情を率直に語りだした。独白のようでもあり、問いかけのようでもあるその溢れでる言葉を、じっと聴き、メモに書き留める椹木野衣氏。針生氏の抜き差しならない発言を受け、冷静な早口で自らの考えを語りだした。親子以上に年の離れた、それぞれの時代に真摯に対峙してきた2人の批評家は、現在進行形のこの事態に何を感じ、どう考えるのだろうか。
この日の撮影は重苦しいものだった。
9.11の後の、アメリカのマス・ヒステリーと言いがかりのようなアフガン戦争。メディアはいいように操作され、いつのまにかあの間抜け面の大統領が、新世紀最初のヒーローのように表象されていた。あの醜悪なハリウッド製映画「インディペンデンスデイ」でさえ、ビル・プルマン扮する大統領はもう少しましな知性の持ち主ではなかったか?そんな絶望的な新世紀、世界が醜悪さに覆い隠されていた秋だった。
狭い室内、ロケハン後に撮影プランを考えた結果、カメラは一台で行くことにした。バジェットの問題ももちろんあるのだけれども、この緊密な空間で緊張感の高い対話が交わされることは明白であり、その緊張感、今まさに起こっている事態について考えをぶつける場の緊張感を、自分自身も共有し、表現に直結、映像化していこうと考えたのも確かだ。そうして2人の人物の対談をカメラ一台で撮影するという、通常ではまずやらない方法をとることにした。
カメラを簡易移動車に載せ、自分のリズムで押し引きする。レールを対話する2人と平行に敷き、それぞれの側にカメラが動いて入れるようにした。もちろん撮影のために対話を中断することはありえない。それぞれが語る言葉に合わせてカメラが緊張感をはらんだリズムをつくりだして行くべく動くのだ。ただ語っている人間の顔が見えるようにお互いのポジションにカメラが入るという機械的な移動撮影ではなく、時には語っている側の人物がいっさい写っていなくとも、その場に投げ出された問題の在処、目では見えない想念の領域をカメラで捉えなければいけないと思った。
セッティングが終わるころ、椹木野衣氏がやってきた。僕はこの時が椹木氏との初対面。あれ?失礼な話だが、前に写真で見た時よりなんかぽっちゃりしている!
精悍な芸術青年風の容貌を想定していた僕は、重ねて失礼な話、いささかめんくらってしまった。これはうっかり撮影すると、あのアート系学生のカリスマ・椹木野衣がただの太ったオタクにしか見えない!(椹木さん、本当にごめんなさい!!)ポーカーフェイスを装いながらも、僕は内心どうしたものかとあせっていた。撮影には常に、思いもよらないトラブルが潜んでいるのだ。
椹木野衣氏の風貌に内心慌てた僕は、頭の中を急回転させ、どうすればいいかを考えた。結論は10秒以内に。自分の方針を内面化させ、切所で瞬間的に表出させる。これがドキュメンタリー撮影の肝だといつも痛感する。ものを深く考えている人物でも、いざ目の前で何か起きた時、瞬間的にその出来事に対して判断が出来なければ、その思想の力は弱いものになってしまうだろう。まして僕のような仕事をしている人間が、瞬間的に己の基準に基づいた正しい判断が出来なければ、普段撮影について偉そうにいろいろ語っている言葉も、つまるところ無意味になってしまう。
ということで、出した結論が、「顔があまり見えないように撮る」だった。ほとんど反則なのだが、これは正しいと直感出来た。つまり、対話者2人に漂うであろう重い空気、それこそが今日の対話のメインテーマであり、監督の大浦さんとも確認していた狙いどころだった。この日本で生活していることで、抱え込まざるを得ない原罪のようなもの、それはこの撮影現場にも漂っているはずであり。それをあぶり出すことはこの日のテーマの一つでもあると思った。自分たちをいまここに存在させている条件そのものに目を向ける、椹木さん的に言えば、「還元のポップ」の意識を踏まえて、セッティングの修正をおこなった。
具体的に修正したことは、ますカメラの高さをあげることだった。高めの位置から人物を狙うことによって、映画を観る人は、彼らが置かれている状況というものに意識が向くようになると考えた。それからカメラが人物を通り過ぎるカメラワークを多用すること。定まらない視点が、用意に答えを出せない時代状況に誠実に対応出来ると考えた。これらの案は、もちろん「どうやったらオタクの紋切り型に人物のイメージを落とし込まれないようにするか」という苦肉の策から発生したのであったのだけれど、結果的にはうまく行ったと思う。現場はなんだかんだいって、こういうことがとても多いのだ。決して手抜きしている訳ではない。事実、この日の対話も予想通りの緊迫したものとなり、その核心を、映像でもかなりいいところまで追い込めていたと思う。感想は観た人にゆだねよう。
2006年11月04日 16:13
撮影の記憶より 辻智彦(撮影)
1. 鵜飼哲氏と針生一郎氏の対話 2001年1月30日
それは2001年、薄雪が舞う寒い1月のある日に、一橋大学の構内にある古い建物で行われた。この映画の最初の撮影シーンでもあった。
9.11の約8ヶ月前。ブッシュ米大統領就任直後のことだった。
大統領の座をめぐって争った、その怪しげでいやに陰謀めいた選挙戦は、今から考えるとその後の世界の惨状を、きなくさく先取りしていたのかも知れない。
対話は、鵜飼氏が針生氏の批評活動の根拠を問うところから始まった。
柔らかく慎重な鵜飼氏の口調は、しかし厳密で鋭い。
針生氏も鵜飼氏に問われながら己の批評を振り返り、思わず痛恨の言葉が口をつく。
戦後の間もなくまでは、日本の美術界に確かに萌芽していた、真に新しい表現はどうして破産していったのか。いつしか天皇制システムに絡みとられ、頽落していった戦後日本の表現。山下菊二の描いた作品群が、ついに生まれなかった子どもたちに、無言の祈りを捧げているようにみえた。
この日の撮影を思い出してみた。
雪の積もった地面から容赦なく冷気が忍び込んでくる、底冷えのする日だった。戦前に建てられた大学の旧館は冷たいコンクリートとレンガ造り。真昼だというのに館内は薄暗い。僕たち撮影隊は、カメラ2台と移動車、それに照明機材を室内に運び込んでセッティングを開始した。
幸い電源容量には問題ない。それほど広くない室内を見回しながら、夕暮れの光の廻りを想像してライティングを決定していった。撮影は夕方スタートだ。
夕方近く、鵜飼さんが現れた。が、なんとゼミの学生さんたちも一緒に来てしまった。針生さんとの対談を是非見学したいというのだ。狭い室内、学生さんたちの居られるスペースは撮影プランに全く入っていない。どうしたものかと一瞬頭を抱えたが、臨機応変の対応は現場のイロハ、とっさに学生さんたちも画面に入れ込むことにした。
部屋の後ろに椅子を並べ、照明を暗く落した中に、並んで座ってもらう。針生さんの背景に、かすかにうごめく人影としてご出演願うこととなった。
即興のアイデアというものは、しばしば思いもよらない効果を画面に与えてくれる。針生さんの背中に、戦後日本の抑圧された無意識が、ぼんやりと、そしてはっきりと姿を現した。
日が暮れるのに合わせ、撮影開始。もう一台のカメラをオペレートしてくれる角山君は、1ヶ月以上の海外ロケを一緒に過ごしたこともある、気心の知れた奴だ。
かなり特異なルックで押し通すこの映画の撮影では、僕の方法を良く理解してくれる撮影スタッフが必要なのだが、彼なら安心して任せられた。
針生さんと鵜飼さんの緊迫した対話。寒さにもかかわらず、三脚のハンドルを持つ手もじっとりと汗ばんでくる。リターンモニターで返ってくる角山君の映像もいい感じだ。録音の川嶋さんもマイクブームを手に、ヘッドホンにじっと聞き入っている。撮影中は感触を掴みにくい監督の大浦さんも、禁煙パイポを三本の指でぐっと握り、対談内容の準備稿とモニターを交互に見比べている。悪くない反応だと思った。
余談だが、この時撮影助手として来てくれていたM君は、その後撮影助手の仕事を辞め、チェチェンに渡り、ムスリムに改宗して反政府ゲリラと合流した。9.11の直前だった。9.11の後、長い間行方不明だったが、ある時グルジアで拘束され、無事?日本に送還されてきた。その後彼とは話をしていないが、何が彼をその行動に駆り立てたのだろう。行動派の彼なら考えた結果ではないというだろうが、なら彼の無意識の衝動は、何に由来しているのだろう。
この映画をめぐるテーマとの奇妙な符合を、僕は感じてならなかった。