日本心中

introduction 解説

2007年06月10日 00:56

イントロダクション

INTRODUCTION
 2001年9月11日から5年・・・21世紀、世界は、そして日本はどこに向かっているのでしょうか。現代社会を覆う出口の見えない不安の中、この世界の自由と希望を根源的に取り戻すため、かつて天皇コラージュ作品で日本のタブーを揺るがせた異端の美術家・大浦信行が、5年の歳月をかけて恐るべき新作ドキュメンタリーを完成させました。
 映画の名は『9.11-8.15 日本心中』
 この映画は、現代日本のありようを、2001年9月11日に起きた米国同時多発テロとの関連で見つめ直し、ドキュメンタリーと象徴的な映像の融合による新しい表現によって、あるべき日本と世界の姿を模索しようとした作品です。極限まで研ぎすまされた映像と音声のなかに、真の「自由」を求めさまよう、出演者たちの魂のさすらいが浮かび上がってくるような、神話的ロードムービーとして完成したラディカルなドキュメンタリー映画です。
 映画の中では、元日本赤軍リーダー・重信房子を母に、パレスチナ解放闘争の闘士を父に持ち、数奇な運命を生き抜いてきた重信メイと、戦後日本の文化状況を鋭く批判し続けてきた美術批評家の針生一郎、それぞれの旅を主軸として、美術批評家の椹木野衣や思想家・鵜飼哲、哲学者・鶴見俊輔の各氏による対話や、韓国の抵抗詩人・金芝河の語りなどを通じ、私たち人類が進むべき道を探ってゆきます。
 また、藤田嗣治の戦争記録画『アッツ島玉砕』を取り憑かれたように模写する男(島倉二千六)の姿を通して、戦時中日本で多く描かれた「戦争記録画」が抱え持つ問題を、9.11以後の世界が抱える困難と重ね合わせ、それを、人間の魂が根源的に求める「自由」の問題として捉え直してゆきます。
 そして、テーマを追求するプロセスを、通常の対談やインタビュー、あるいはルポルタージュの形式で描くのではなく、東アジアの象徴的な風景や、戦争記録画、河原温、山下菊二、村上隆などの戦後〜現代日本のアバンギャルド美術、幻想的なドラマ、韓国シャーマンの「恨」の舞い、そして魂の老舞踏家・大野一雄氏の渾身の舞踏などの圧倒的な映像を織り交ぜて描いていきます。
 そうしてこの映画は、「体感する思想映画」としてめまいにも似た覚醒を観る人に与える、未曾有の作品として完成しました。

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2007年06月09日 22:00

ストーリー

STORY
2001年1月、老美術批評家、針生一郎は、残り少ない己の人生をかけ、最後の旅に出た。
批評家として闘ってきた敗戦後日本の状況を、痛みとともにもう一度たどり直すべく、
かつての盟友や、若い思想家たちを訪ね歩く旅が続く。

同じ頃、1973年にパレスチナで生まれた重信メイも旅を始めていた。
メイの母親は、かつて世界を震撼させた日本赤軍のリーダー・重信房子。
父はパレスチナ民族解放運動の闘士だったが、闘争の渦中で暗殺された。
彼女は生まれ育ったレバノンを離れ、母の国、日本にやって来た。
そして、アラブと日本に引き裂かれた自己のアイデンティティを探す旅を開始したのだった。

さらに他方、この現代に日本の「戦争記録画」を黙々と描き続ける男がいる。
彼は何かに取り憑かれたように、敗戦後日本のあり方を、
「戦争と死」の絵を描きながら執拗に問い続ける。

そして2001年9月11日、アメリカ同時多発テロが発生した。
9.11を契機にして、彼らの旅が加速していく。
2001年9月11日のニューヨークの青空と、
1945年8月15日、日本無条件降伏の日に日本が体験した青空の奇妙に似通った光景が、
彼らを遠く隔たった時空の間に横たわる闇に、奇妙な白昼夢とともに迷い込ませる。

いつしか重信メイと針生一郎は、導かれるように朝鮮半島に足を踏み入れていた。
そこには日本と位相をずらしながらも、根源的な魂のありよう、「東アジアの原型」が、
密かに息づいていると言う。
そして、その韓国の地に住み、苦難に満ちた人生を生き抜きながらも希望を絶やすことなく
「東アジアの原型」を生命を賭けて求め続ける詩人・金芝河。
いくつもの川の流れがやがて同じ海に流れ込むように、
針生一郎と重信メイ、それぞれの旅が、ついに金芝河に行き着いた。

彼らが時空を超えた懐かしい出会いを果たした時、
彼らの発する闇からの光が、現代日本、そして世界の姿をゆっくりと浮かび上がらせてゆく。
そこに見えてくるものは、希望だろうか、絶望だろうか・・・

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2006年08月20日 18:32

『9.11-8.15 日本心中』クレジット

CREDIT
9.11- 8.15 日本心中
2005年製作 145分 カラー 

出演:針生一郎 重信メイ 鵜飼哲 椹木野衣 島倉二千六
    岡部心理恵 大野一雄 鶴見俊輔 金芝河

制作:国立工房(クニタチコウボウ)
監督・脚本・編集:大浦信行 
撮影・編集:辻智彦 
録音:川嶋一義
制作進行:中村江位子 中村篤
韓国語監修:古川美佳
韓国コーディネーター:洪成潭 兪池娜  
ムーダン:蔡貞禮 姜正太 咸仁天  
仮面劇:ウンユルタルチュム保存会
ナレーション:中山真利絵 武藤光司 中村江位子
整音:吉田一明  
音楽録音:寺田伊織(Rinky Dink Studio) 
音楽:朴根鐘 
演奏:李明姫 李東信
唄:中山ラビ 
配給・宣伝:シネマチック・ネオ

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2006年08月15日 22:54

『9.11-8.15 日本心中』関係資料

関連資料


山下菊二(やました きくじ)
1919年徳島県に生まれる。19才(1938)の時、日本のシュルレアリズムの指導者、福沢一郎の絵画研究所に学ぶ。ここでボッシュやダリ、エルンストの作品を知り、衝撃を受ける。
20才(1939)の時、招集、現役入隊する。〈大日本帝国陸軍の一兵卒として〉中国南部での日中戦争に送り込まれた過酷な戦場体験は、多感な一青年にとってあまりにも重く、戦争従犯者としての責任という意識は、生涯の制作課題となる。
33才(1952)の時、小河内ダム建設反対の山村工作隊を支援するための文化工作隊の一員として、小河内村に赴き反対運動を展開する。34才(1953)、山梨県あけぼの村における貧農と地主の闘争の記録を、モンタージュ風に描いた『あけぼの村物語』を制作。この作品を同年開催された第一回ニッポン展に出品する。
1950年代に「ルポルタージュ絵画」と呼ばれたこの『あけぼの村物語』を含む一連の作品群による「新しいリアリズム絵画」は、60年代初頭のネオ・ダダ、反芸術と共に、戦後日本の閉塞感と極限状況を見事に写し出している。
そして土俗と因襲、怨念と抑圧がおどろおどろに渦巻く世界を、地獄極楽図のように残酷だが、紙芝居のようにユーモアを含んで再構成し、阿波人形浄瑠璃や恵美須人形、ジンタをひびかせるサーカスなどの日本のフォークロアが、グロテスクとエスプリを交錯させて表現されている。そこにはシュルレアリズムをドキュメンタリーの方向に超えながら、共産党の紋切型のリアリズム理論に対抗しようとした山下の一極限がある。またその内部には、モンタージュされた諸要素から観衆が自由に物語を読みとれる多義性をはらんでいて、根源的な生命の意識を突き抜けて立ち表れてくる死者たちと一体化している。
その後も「松川事件」や「狭山裁判」などの社会的題材を取り上げ、現代日本史の不条理な構造矛盾が、実は天皇制を頂点とする巨大な暗黒の制度によってもたらされていることを、鋭く指摘し続けている。
生前から多くの若い世代に影響をあたえた彼の道程と作品は、その死後も尖鋭な思想にもとづく芸術、芸術制作を通して形成された思想を求める人々の、かけがえのない指標となっている。


藤田嗣治(ふじた つぐはる)
1886年、東京府牛込区に生まれる。父嗣章は、文豪森鴎外の次の軍医総監を務めた。1905年、東京美術学校(現東京芸大)西洋画科に入学。
1913年、パリ到着。1919年には、サロン・ド・ドートンヌに6点出品し、全点入選を果たす。1922年には早くも審査員となる。モンパルナスにアトリエを構え、モディリアニ、スーチン、ピカソ、パスキンらと親交を結び、次第にパリ画壇の寵児となっていく。オカッパ頭にロイド眼鏡という独特の風貌でパリを闊歩し、美術界ばかりでなく社交界でも人気を集めた。裸婦、猫、少女などを題材として選び、その「乳白色の肌」は、西洋画の模倣でも日本画でもなく、藤田独自の絵画世界の表出としてパリ画壇の絶賛を浴びる。
1940年、ドイツ軍の侵攻によって陥落直前となったパリを脱出して、7月日本に帰る。帰国後に藤田が描いた『ノモンハン事件』は、1941年第二回聖戦美術展に出品され、この作品を起点として彼による大量の「戦争記録画」が制作、加速されていくこととなる。憑かれたように昼夜を問わず描き続ける藤田の戦争記録画は、肉の塊としての「死の相貌」だけが累々と画面を支配し、人間を「肉体」として捉え、その肉体の蠢くさまの「器官なき身体」という極限状況をしっかりと見据え、描ききっている。そこには、自己の内部を空洞化させ、次いで自己を拡散し、膨張と収縮をくり返していく私たちの姿の投影がある。
『アッツ島玉砕』や、『サイパン島同胞臣節を全うす』によって、明治の移植された制度としての近代の中、さらなる美術という「内なる制度」が、戦争記録画によって初めて西洋からの借りものでない、真にリアリティーを持った「民衆」という主題を見い出し得たという逆説。それは皮肉にも、日本近代絵画の一つの到達点でもあった。そこから、近代日本の「自画像」が密かに浮かび上がってくる。だから藤田は、戦後へと繋がる、自己分裂を起こし、分断、分節されていく自己と、「肉体化する世界」とを、戦争記録画によって、いち早く予兆していたと云える。それが天皇制に支えられた帝国日本の、大アジア主義による侵略戦争の名のもとに描き出されてきたことは不幸な事実ではあるけれど、そのような形でしか日本の自画像や民衆といった主題を見いだし得なかった日本近代の歪みとねじれもまた、この戦争記録画によって露になってくる。
魔性をおびて、狂気となって、人間存在の根源的な魂の叫びにまで昇華された藤田の戦争記録画が、私たちに提起する問題は、未だ出口を模索し続ける現代の私たちに鋭く突き刺さってくる。
戦後は一転、軍部権力に協力し、侵略戦争を賛美した戦争犯罪者として断罪される。
1949年、「日本画壇が国際的水準に達することを願う」という捨てゼリフとともに羽田を出発し、アメリカ経由でパリに辿り着く。その後二度と日本の土を踏むことはなかった。
1955年、日本国籍を抹消、フランス国籍を取得する。1968年チューリヒ州立病院で死去。